大判例

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東京高等裁判所 昭和52年(ラ)429号 決定

抗告人

沢田とめ

相手方

森野ゆき

右代理人

田中平八

相手方

森野寛治

外六名

主文

本件抗告を棄却する。

理由

一本件抗告の趣旨および理由は、別紙のとおりである。

二1、抗告人の別紙抗告理由一は、要するに本件遺産分割協議が相手方森野寛治が相手方森野ゆきの面倒をよくみないことを解除条件とするものであつたところ、条件が成就したから効力を失つた旨主張するものと解して判断する。

たしかに〈証拠〉によれば、本件遺産分割の際、他の共同相続人たちが、相手方森野寛治に対し、相手方森野ゆきの面倒をよく見るように求め、相手方寛治は、これに応じて相手方ゆきの老後の面倒をよく見ることを約束した事実は、これを認めることができる。

しかし、右約束をこえて、相手方寛治が相手方ゆきの面倒をよく見なかつたら(世話の仕方が悪かつたら、という条件)、被相続人の遺産が再び共同相続人の合有になり再分割の協議をするというような解除条件が本件遺産分割協議に付されていたことを認めるに足る証拠はない。抗告人自身の前記原審審問調書記載の陳述によつてもこれを認めることができない。

かえつて原審家事事件記録によれば、共同相続人らは、相手方森野寛治に前記のように約束させた上、確定的に分割の協議を遂げたことを認めることができるのである。

従つて、抗告人の右主張は理由がなく採用できない。

2、抗告人は、別紙抗告理由二において、相続分不存在証明書について、原審が、抗告人、相手方ゆき、同治郎平、同寛治以外の当事者を審尋しなかつたことを非難する。

しかし、前記の約束のもとに、相手方ゆき及び同寛治以外の共同相続人らの相続分をないものとする合意が成立し、その手続のため右共同相続人らがそれぞれの実印を相手方寛治に渡したことは、家事事件記録によつて明らかであるから、原審において、その手続に使用された相続分不存在証明書につき同人らを審尋しなかつたこと、或は抗告人に相続分不存在証明書を示して審尋しなかつたことに何らの違法もない。

3、抗告人は、別紙抗告理由の三において、原審判が、相手方寛治の小作を認定したというが、原審判は、原審判書添付の目録(一)、(二)記載の農地は寛治が被相続人の生前より耕作を続けて現在にいたつていることを認定しているに過ぎず、抗告人の右非難は理由がない。

4、抗告人は、別紙抗告理由四ないし七において、本件遺産分割協議が条件付でなかつたとしても、相手方寛治の債務不履行により、右協議は抗告人、相手方近藤ちよ、同遠藤みほ、同森野治郎平、同新田つね、同森野ゆき以上六名から相手方寛治に対しては昭和五二年六月六日、同野口山さちに対しては同月七日、同森野ともに対しては同月六日に各送達された同月三日付遺産分割協議解除の意思表示により解除された旨主張する。

右主張のとおり解除の通知がなされたことは本件当審記録に綴られている内容証明郵便及び郵便配達証明書各三通の写によつてこれを認めることができる。

遺産分割協議において負担させられた債務を履行しなかつたとき、民法五四一条による解除が許されるかについては消極に解するのが相当である。その理由の一つは遺産分割結果の安定性保持という点からで、もしこれを許すとすれば、民法九〇九条本文により遡及効のある分割について再分割がくり返され法的安定性が著しくそこなわれるおそれがあるから長期間不確定な状態においておくことは許されないことと、遺産分割の協議の際に分割の方法として共同相続人の一人又は数人に他の共同相続人に対し債務を負担させて現物をもつてする分割に代えるのは、分割を容易にするために採られる便宜的方法であつて、この債務自体が遺産に属しないのであるから、遺産分割そのものは協議の成立とともに終了し、その後は負担させられた債務者と債権者間の債権関係の問題として考えるべきであろうということである。従つて右約束を履行しなかつたことを理由として、催告の上、分割協議を解除した旨の抗告人の主張は理由がない。

抗告人は、別紙抗告理由の八において、本件の如き場合に、老母の老後を看る約束は、後日これを守らなくてよいことが裁判所において公認された場合の弊害を主張している。

しかし、本件再分割の申立を却下することが、直ちに、相手方寛治が前記約束を守らなくてよいことを公認することになるということはできない。

三以上のとおり、本件遺産分割の協議は、解除条件付ではなく、従つて解除条件成就の効果は認められず、また解除ができないのであるから、結局有効に分割を了していることになり、その遺産の再分割を求める抗告人の本件申立は許されない。

従つてこれを却下した原審判は相当であり、本件抗告は理由がないから、家事審判規則一八条、家事審判法七条、非訟事件手続法二五条、民事訴訟法四一四条、三八四条一項に則り本件抗告を棄却することとして、主文のとおり決定する。

(岡松行雄 園田治 木村輝武)

【即時抗告の趣旨】

原審判を取消す。

との裁判を求める

【即時抗告の理由】

一、原審判は、理由の一で、申立人が「被相続人亡森野英太郎が死亡し、同人の遺産を相続するに際し、相手方森野寛治(長男)が、母である相手方森野ゆきの老後の面倒をよく見ること、面倒をよく見ない場合は、寛治の妻を離婚することを条件として、他の相続人らは、寛治が遺産を相続することに同意した。にも拘らず、寛治は母ゆきの面倒をよく見ないから条件が成就せず、本申立に及んだ」旨記載しているが、右は重要な点で、申立人の申立の理由と喰違つている。

即ち、「ゆきの面倒をよく見ない時は、妻と離婚しても約束は守る。」とは寛治の方で言つたことであり、妻を離婚することが本件遺産分割の条件等では決してない。

遺産分割に際し、寛治は妻うめとともに、長男として、それ位の決意を以つて、抗告人ら兄弟姉妹たちをして事実上それぞれの遺産相続分を放棄することを納得させたのである。と言うのは、寛治は、父英太郎の生前から、母ゆきを天秤棒で殴打する等の乱暴を働くことが多く、その上同人の妻うめも姑たるゆきをそれ迄「お姑さん」と呼んだこともない状態であつたので、英太郎の死后、その遺産分割に際し、ゆきの老後の面倒をよく見て呉れるかどうかが相続人全員の第一番の前提になつたのである。

寛治の方でも、その事は充分に知つていたからこそ、前記のとおり「妻を離婚しても言々」と言出したものである。

原審は、「申立人主張の如き条件はなかつた。」ものと一蹴しているが、それなら、前記誓約書は、一体、何のために書かれたものか、原審認定の如き事情であつたなら、寛治と妻うめが申立人ら他の相続人全員、及びその各夫らに対し、「父英太郎葬儀の折約束した事項を守らず、母ゆきに対し、精神的苦痛を加えましたことは誠に申訳なく、心よりお詫び申上げます。今后は固く戒め、二度とかかることを惹起しない事を誓います。」などと何故に書いたものか、この誓約書は、原審において提出しているにも拘らず、審判の理由の中から故意に除外されている。而も英太郎が死亡したのは昭和四十六年一月三日で、この誓約書の日付は、昭和四十九年十月六日であり、英太郎死后右同日迄「ゆきの面倒を見る」と言う約束を全然履行しなかつたことを示している。

そして、その後も右誓約書に記載されたことは守らず、七十四才で高血圧のゆきは、寛治宅にはとても同居出来ず、抗告人ら他の子供達のところを転々としている状態である。

又、原審は、寛治がゆきの老後の生活をどのように見て来たかについて全然触れず、「抗告人主張の条件がなかつた以上、最初から問題にならない。」との態度のようである。

二、原審が取調べたと言う、「民法九百三条による「相続分不存在証明書」と言うのは、本件相続人の内、次男治郎平他の姉妹が前記の次第で、寛治と老夫婦の前記約束を信用して、事実上相続を放棄することゝし、各人の印鑑と印鑑証明書を寛治に渡した結果、寛治が相続登記に際し勝手に作成した文書であり、治郎平以外、民法第九〇三条により、相続分がなくなる程の生前贈与を受けたもの等、全然いない

学歴は、治郎平と新田つねが地元の農業高校を卒業した外、他の姉妹は義務教育を受けた丈で、而も小学校時代から嫁入り迄、皆それぞれ一所懸命、家の農業の手伝いをして来たものである。

嫁入り仕度は何れも桐タンス一本に鏡台外少々と言う程度で、これにより、相続分がなくなる等と言うものでは決してない。

原審は、これらの点につき、抗告人、ゆき、治郎平、寛治を審尋した丈でその他の相続人を文書の成立の点をも含め全然審尋していない。又抗告人に対しても、右文書の写さえ示したこともない。

三、原審判添付目録(二)の土地を、母ゆきに、同目録(一)の土地を寛治に各相続する旨の右両名の遺産分割協議がなされているが、英太郎が死亡する迄、同人が右土地を耕作していた。原審判は、寛治が小作していた旨認定しているが、「農地を小作する」とは、自分が経営主となつて、他人名義の農地を権限に基き適法に耕作することであり、このことは、旭市の農業委員会を調査すれば直ちに判明することであるが、原審は、当然すべきこと調査をしていない。右農地について、寛治が耕作することを農業委員会に届出したのは英太郎死后であり、ゆき名義の土地二筆については、ゆきの同意を得たことはなく事実上耕作を続けている。このゆき名義の農地の小作料等はもとより支払わないし、右農地二筆を離作してゆきに返還するようにとのゆきの調停申立に対しても、寛治はこれを拒否している。

四、本件は、特に「農家において、長男が略全遺産を相続する代りに被相続人の妻たる母親の老後の面倒を見る。」と言う型での遺産相続において、問題の長男が財産丈を得た后義務を履行しなかつた時に、後日遡つて、遺産分割自体をどれ丈問題に出来るか」と言う、極めて平明で且つ重大な問題がそのテーマである。

何故ならば、日本の農業は相続に際し、農地の分散を出来る丈喰い止めなければ、所謂「田分け」と古来言われている如く、農業自体が存続し得ないし、その上、日本人の文化的情緒として、先祖伝来の家産を維持する跡取り(通常は長男)が居り、家業が維持存続されていると共に、その家に嫁して年老いた老人等が、その家で老後の安住を得られることを一番の好ましいことゝ考える感じ方の伝統が根強く生きているからである。

五、右の如く、家産が相続人の内の一人によつて維持存続されるのが好ましいのは、家産を相続したその本人の利益丈のためではなく、家産を右の如く維持することにより、他家よりその家の構成員となり、爾来、一所懸命に働き、その家に対する自己の帰属を自覚して何等疑問を持たず、年老いた妻達にとつて、そのような家が老後の安住の場所として機能し続けて来たたゝめであり、その意味の深さは今日申訳的な老人年金の遠く及ばないところである。

このような「老人の老後の面倒を見る」と言う伝統的な身分保障がなければ、農家の相続に際しては、相続人全員からの分割要求の権利主張は飛躍的に強くなることは明らかであり、それでなくても小規模な日本農業は、相続の度毎に細分化され、将来、経営として成立たなくなる。そして老女も又多くの場合、安住の場所を失つて仕舞うことになる。

「相続人全員で老人の扶養を分担すればよい。」と言うのが法の建前ではあるが、英国の諺に「Everybody's business is nobody's business」(皆んなでやることになつていることは誰もやろうとしない。)と言うのがあるとおり、むしろうまく行かないことの方が多く、年老いて子供達の間を点々と渡り歩くことを好む老人と言うのは、殆んどないであろう。このようなことのないようにと言う相続人間の共通の願いによつて、所謂跡取りに相続財産を集中するのである。

(要する「諸子均分相続」を規定した民法の相続法の規定は、日本の、特に農村の「文化の骨組」そのものと矛盾し、これを破壊するところを含んでいることは、今日でも変りはない。)

六 一旦合意した遺産分割の協議を、出来る丈、后日覆えせないようにすることは、それ自体合理的である。然し、遺産分割に際し、条件として約束したことをも全然履行しない時でも、後日、これを問議出来ないと言うためには、問議出来ない丈の法律的理由がなければならない。

七 言う迄もなく、遺産分割は、共同相続人間の契約であるから、本件の如く条件付合意としても、又契約不履行のときには、分割合意を解除することも可能でなければならない。たゞ些細な契約遺反をとらえて契約解除することが認められないことは、契約解除一般の問題だし、又契約解除によつても第三者の利益が保護されることは、民法第五四五条一項但書がある以上当然である。

遺産分割につき、意思表示の瑕疵による取消や、詐害行為による取消を認める以上、契約解除をも又当然認められなければならない。特に本件の如く、「老人の扶養と言う」義務自体が容易に金銭に見積り難い場合に、遺産分割はそのまゝにして老人の扶養だけを寛治に求めることは、ゆきが寛治、うめに虐待され続けて来た以上、具体的には殆んど実現の可能性がなく、寛治が扶養料を月々出し、他の相続人が持廻りで扶養すると言うようなことならば、曩に強調しているように、家産を跡取りに集中しておく心算等全然なかつたことが、当初からの相続人全員の共通の認識であつた。ものであるから、仮りに本件遺産分割協議が条件付合意でなかつたとしたら、寛治の前記債務不履行は正に契約解除によつてこそその目的を達せられるものと言う可きである。

抗告人は、本件遺産分割協議(抗告人ら兄弟、姉妹間のもの)は、前記のとおり条件付であると主張したが、仮りに条件付でなかつたとしても、右遺産分割協議は、寛治の債務不履行により、昭和五十二年六月四日契約解除されたから、結局亡伊藤英太郎の遺産については、遺産分割が未だなされていない状態であるため、原審判は、取消を免れないと思料する。

八 権利の只取りを認める必要は全然ないし、本件の如き場合に、老母の老後を看る約束は、后日、これを守らなくてもよいことが裁判所において公認された場合、これを真似る者が多く出ることは当然予想される。従つて、跡取り以外の相続人は以后、遺産分割に際し右のような約束をする跡取りの言を信用しなくなるから、農村文化的伝統も経済もこの面から破壊されることになる。

このことはもとより、農村丈に限られる問題ではない。商家においても基本的には同じである。

伝統的な文化の構造の中には、人間がその中に安住して来たメカニズムがあるのであつて、この点を充分御参酌されたく、本申立に及んだ。

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